今回はホハ204の列車に便乗の記憶から。1981年に三池港を訪れた最初の時になる。
許可をいただいて、しばらくホハ204を撮影。見れば見るほどサモハの印象そのもの。
ドアの開く方向等の違和感はあったが、それでも戦中戦後がそのまま残ったとの印象。
朝の運用が終了となり午前中は停止中、昼前にまた動くということで相談をしたら、
ありがたいことに便乗許可がいただけたため、ホハ204に乗車することができた。
日中でもとても寒い冬の日、運転手がNo5に乗込み、ゆっくり動いてホームに入る。
昼前の列車は通勤の炭鉱職員は少なくガラガラ状態。もちろんお目当てのホハ204に、
ドアを手で開けて乗り込む。車内の第一印象は、寒々しい。暖房なし?本当に寒い。
車端に乗務員室というより乗務員(車掌)区画があり、従ってホハというよりホハフ?
座席はビニールシートで、当時電車や客車気動車では未経験的な感覚であった。
記憶が間違っていなければ、車掌さんの笛が聞こえてそして発車。速度は早くない。
貨物列車も頻繁に走行のためか、思ったほど揺れはひどくはなかったように感じた。
一番の揺れ揺れの記憶の別府鉄道のハフ7乗車時と比べたら、全く問題ないレベル。
基本的に各駅停車、乗車券のようなものは無いように思えた。しいて言えば社員証が
定期券の様な扱い?でも顔パス状態のためか特に確認しているようには思えなかった。
しばらくは複線区間を走行、途中の原万田から単線の支線走行の感じ。30分弱程度?
当日はやがて雪となる激寒状態。小雪が吹き付ける中、吐く息が白い車内で乗車継続。
夢にまで見たほどのホハ204への乗車、しかしその実態はまるで修行僧レベルの苦行?
快適とは程遠い状態。窓を開けるなど論外。そのため、もし車内立ち入りが出来たら、
中段が開くか試したい思いは完全に忘れてしまった。車内の拡大画像からは、中段の窓
をあげる切込みが見られる。よって開閉がおそらく可能と思われるが結局は後の祭り。
自分では確認できず推定のみ。もったいない。
そんなこんなでやがて終点平井に到着となった。その終点平井での機回し後に撮影。
それが終了すると、短時間で三池港行となって発車となる。この時に初めてホハ204の
正面?(乗務員室側)を拝むことが出来た。これが最初に示した撮影画像になる。
当時のフィルムを見ると、1981年の1回目の訪問では、ホハ204等の正面撮影画像は、
上記1枚だけしかない。これは再訪しなければと思い、翌1982年と1983年の合計3回の
訪問になった。ただし2回目3回目は便乗不可。結局OKは1回目の時だけ。その、とても
貴重な機会であるのに、三池港行の戻り客車を、何と原万田で降りてしまった。
車掌さんから、「三池港から今度は万田行きになるのだけど、乗らなくていいの?」
のあたたかいお言葉。
素直にそのまま乗っていればよかったのに、ありがとうございました、と言って降りて
しまった。その後は鹿児島線の荒尾まで歩いたようだ。何という判断、困ったもの。
いくらその後の切羽詰まった予定とはいえ、何ともったいないことをしたのだろう。
1981年の2月下旬は、北九州は大寒波で天気が悪く撮影には不適、その時に備えて
撮影中心ではなく、当時廃止の声がしたローカル線乗りつぶしのサブプランも想定。
雪も降る激寒状態では、どうもそのサブプランを選んでしまったようだ。
九州へ入る前の宇部線の頃から天気は悪く、宇部電車区で止まっていた旧型国電を
一通り撮影したが、それ以上は行動せず。早めにに九州に上陸。しかし、とても寒い
曇りと雪の天気ばかりで、状況は悪化するだけ。また戻りでは、2/28のみ晴れたが、
3/1の福塩線70系最終運転は、瀬戸内の温暖な地域とは思えない雪中の撮影になった。
2/25午後の予定は全部キャンセルでも良いほどの価値があるのに。後悔先に立たず。
その、超もったいない機会を失った1981年2月25日の前後の行動は、以下再現。
2/24
→居能1357→宇部1411→下関1518→門司1539→直方1635→筑前宮田1659→
→勝野1712→1716直方1843→金田1904→後藤寺1942→伊田2000→直方2026→
→若松2111→香月2211→2225折尾2259→かいもん下→(熊本)→・・・
2/25
→157熊本245→かいもん上→鳥栖501→基山535→甘木605→基山639→
→久留米718→羽犬塚800→黒木844→羽犬塚955→1021大牟田
****三池鉄道(撮影)****
→荒尾1318→原田1511→飯塚1621→豊前川崎1758→漆生1855→下鴨生1913→
→後藤寺2006→新飯塚2047→勝野2108→吉塚2236→2329折尾2349→
→ながさき下→(佐世保)→・・・
2/26
→448佐世保502→(松浦)→(伊万里)→833山本→・・・
※JTB時刻表1981/01から抜粋
当時の九州北周遊券をフルに使った行程であるが、サブプランでも日程キツキツ。
既に廃止された路線(宮田線、香月線、矢部線、上山田線、漆生線、など)も乗車、
第三セクターと化した路線(伊田線、糸田線、甘木線、松浦線、など)も含めて乗車
できたため、廃止前の国鉄ローカル線乗車という目的であれば、一応は達成された?
しかもこれらの線区では、本数がとにかく少ない、朝夕しか動いていない、など厳しい
条件があり、もし実行し始めたらそう簡単には行程修正が困難。悪い天気要因もあり、
このサブプランを選んだようではあるが、やはりちょっと残念であったように思う。
なお北九州のローカル線では、キハ35系の使用が結構あり、とにかく寒くて参る。
長時間停車で雪が車内に風と共に入りこんでも、九州のキハ35のドアは開けたまま。
また、走行中はとくに隙間風大、車内は寒々。なお編成に1両でもキハ58があると、
乗客はその車両に集中で暖をとる反面、隣のキハ35は乗客ゼロ、等はよくあったこと。
しかしそれすら期待できないキハ35のみの編成では絶望的、諦めの悟り状態になる。
ドアとドアの真ん中の席か、運転室直後の席にじっと座っているばかりで耐えるだけ。
それでも、暖房が入っている「はず」のキハ35に対しては本当に失礼かもしれないが、
気持ち的には先ほどの三池鉄道ホハ204と、思ったより差が少なかったかもしれない。
あるいは、手動で停車中はドアを閉められるホハ204が良いということもあり得る。
個人的にキハ35系の撮影意欲が高くなかった理由は、この寒さから来ているようだ。
駅も同様、解放式待合室ばかりで風も雪も吹込む構造、要するに暖かい場所がない。
ロングシート改造のキハ26等は、元の車両より好まれなかったような傾向らしいが、
冬季は室内が密閉されるという素晴らしい仕様が100%生かせる。そのため、キハ35
に比べて極めて快適、と自分は感じていた。
冬季の旧型客車の夜行ながさきも暖かい思いがない。なるべく隙間風が多い10系は
パスして? 後ろ下流側は蒸気暖房の蒸気圧が低下で暖かくないという誰かから聞いた
迷信?で、先頭に近い車両を選別。座席確保は進行方向逆向き通路側が望ましい。
この位置が隙間風が少ないからという理由。そしてめいっぱい着込んで深夜を迎える。
当時寒さが大嫌いであった自分は、特に冬季は積極的に東北や北海道を避けていた。
しかし、そのため西や南に行く大方針は、結果正しくなかったと判断せざるを得ない。
後に冬季の北海道で感じたのは、外は激寒でも、車内や待合室ではとても暖かいこと。
キハ22の車内に入った時の暖かさは、ホハ204やキハ35の車内とはまるで全く別世界。
そのぬくもりは、まるで天国へのドアを開けた時のように感じてしまっていた。
今回で、ホハ204は終了、次回はホハ203を予定。どうかよろしくお願いいたします。
参考
三池炭鉱鉄道関係
鉄道ピクトリアル434(私鉄の電気機関車、P30~、P42~)
◇P30:三井石炭鉱業(株)専用鉄道
鉄道ピクトリアル557(九州の鉄道、P130~)
◇P130:三井石炭鉱業(株)専用鉄道
鉄道ピクトリアル721(戦前製旧型国電、P66)
◇P66:三井三池炭鉱専用鉄道
国鉄鋼製電車史 モハ63形、下(私鉄向け概要、P36)
◇P36:三井鉱山三池鉄道はサハ78と同形体のホハ201~205を
客車として自社発注
鉄道ピクトリアルアーカイブセレクション37、 63・73形電車の時代
◇P12:三井炭鉱専用鉄道、ホハ204
鉄道ピクトリアル959(私鉄の63形電車)
◇P52:三池炭鉱専用鉄道、ホハ200形(ホハ204、ホハ201)
◇P52:「日車の車両史」所載の図面によれば、乗務員扉がなく、
前後とも非貫通・・・
写真とイラストで綴る国鉄73・73系電車
◇P158:三井三池炭鉱専用鉄道(ホハ202、ホハ203)