一睡の夢:国鉄末期の12年

40年ほど前の国鉄時代の記録

赤羽線と埼京線 8(103系高運転台車10両 黄緑6号 混色編成)

1985/08/03 赤羽線 十条、池袋31編成103系(クハ103-271)

1985/08/14 赤羽線 十条、池袋31編成103系(クハ103-271)

 今回も、赤羽線103系から。同じく103系の10両編成となった後の撮影画像になる。

そのうち黄緑6号のクハ103の撮影画像を集計。埼京線開通の1~2か月前の頃である。

上の2枚の画像は31編成で混色、しかも8/3と8/14では編成が異なるように見える。

 8/3の画像では池袋側から2両目と3両目が黄色5号、それが8/14ではさらに池袋側から

8両目と9号目も黄色5号で入れ替わっているように見える。埼京線開通直前で塗装変更

で順に対応していた可能性。

 

1985/08/03 赤羽線 十条、池袋33編成103系(クハ103-305)

 

1985/08/14 赤羽線 十条、池袋34編成103系

 池袋33編成と34編成は黄緑6号の10両で、単純には山手線と同じ様に見えた。

 

 前回はクハ103が黄色5号の32編成の撮影画像をあげたが、残の35編成の撮影記録は

見つからず。塗装変更中であったのであろうか。いずれにしろ、あと2か月後に埼京線

開通となる。現場には相当の負荷がかかったと思われる。

 

1985/08/14 赤羽線 十条、池袋31編成103系(左はクハ103-272)

 

 なお、編成資料は、前回赤羽線と埼京線7にありますのでご参照ください。

 

 

  参考:国鉄電車編成表1985他

 

103系(101系)混色編成一覧表:今回は赤羽線でした

 

 

赤羽線と埼京線 7(103系高運転台車10両 黄色5号 混色編成)

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1984/08/02 赤羽線 十条、池袋31編成103系(クハ103-273)

 

1985/08/14 赤羽線 十条、池袋32編成103系(クハ103-275)

 

 今回も赤羽線103系からになるが、103系10両編成となった後の撮影画像になる。

十条駅はホーム延長で、そのため停車中の10両の撮影が困難になってしまっていた。

今回の画像は混色編成であり、10両全部が黄色5号の撮影画像は見つからなかった。

 最初の1984年の撮影画像は、池袋側から2両目と3両目のみ黄緑6号に見える。

モハ1ユニットのみ異色。次の1985年の撮影画像は、2両目から7両目の6両が黄緑6号の

ようである。この頃は混色編成が多かったようだ。

 

 赤羽線は103系となってから、編成ごと以外にも車両ごとに山手線と入替が発生か、

混色での運転が多発に感じる。それに加え、高運転台車ATC準備車の使用や、中間の

モハやサハの移動等が時間をおいて順番に発生したため、黄色5号へ塗装変更されても

定着しにかった可能性。さらにこの後埼京線として使用のために再び黄緑6号に塗装が

変更になったため、どうも混色電車発生の頻度が高かったと勝手に推定。

 あくまで自分の当時の記憶と感触からになるが、赤羽線の103系の混色は、埼京線の

開通直前までかなりの頻度で絶えず発生していたと思われる。その頻度は横浜線に次ぐ

第2位ではないかと想像してしまう。

 

 1985/09/30埼京線開業の1か月少し前には、まだ黄色の103系が赤羽線に残存していた

ことになる。しかし少なくとも103系10両編成の埼京線では、黄色5号で使用の103系を

自分は見た記憶がない。対応の現場の方は塗装変更を急いで大変であった可能性あり。

はたして開通直後には塗装変更がどうしても間に合わず、黄色5号での埼京線103系が

発生した可能性はあったのでしょうか?

 

1984年/1985年の赤羽線編成、1985/08の記録が出てこず、困惑です

 

 なお、赤羽線の混色電車は、池袋より北側から通っていた複数の鉄道好きの友人の方

からいろいろ情報をいただくことができた。赤羽と池袋での毎日のように乗り換えが

発生でうんざりしていた方々は妙に連帯感があるのか、「赤羽線利用者の会」ができて

いたようで、そこから情報もいただいていた。なお、赤羽線に限らず色々な方面から

くる方からの情報はとてもありがたく、聞いた週末に関連の駅や駅間で2時間待つと、

運が良ければ混色編成を撮れることができた。もちろん全く来ず成果ゼロの日もあり。

平日朝のピーク時と比較して、日中の稼働率は良くて半分強、悪いと1/3~1/4となる。

従って相性が悪い線区では、来るまで何回も行く必要あり。自分の場合は京浜東北線

との相性が悪く、なかなか混色編成と遭遇ができなかった経験あり。しょうがない。

そんな日は、来た普通の103系などをとりあえず一応は撮っておこうとしていたが、

これが今となっては普通に貴重な撮影画像となっている状態である。東京の国電で、

ノーマルな編成の撮影が結構見つかった線区は、たいていは混色電車を追っていた線区

であった。なお、横浜線だけはノーマルな一色編成の方が少ない時期が長く、むしろ

一色編成を撮ろうとか思った時期もあり。線区による事情がいろいろあったようだ。

 

 

  参考:国鉄電車編成表1985他

 

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 以下は、雑談と個人的な思い出の、本文からは全く脱線した内容事項になります。

特に不要な方は飛ばして下さい。よろしくお願いいたします。

 

 

  怪しい雑記2:鉄道好きの地理感覚2

   ヘビーな鉄道好きの日本の地理感覚は、異常に高い

   プライベートなら多少は使えたが、落とし穴には注意

 

 

 

 若手時代はスキーにハマり、会社の先輩友人や後輩も含めて毎週の様に行っていた。

ただし当時はスキーブームで、気軽に行けるところは週末の道路渋滞がとんでもない。

配属先の職場は、金曜夕方5時に上がり土日2日とも休むことを、事前調整なしで実施は

何と犯罪者扱い。土日に休むのに何で申請がいるのか、しかもOKが出るとは限らない。

参った。ただし当時の競争が激しい製品の職場は他部門も似たような状況であった。

 競合会社からの中途転職の方は、元の職場はもっとひどかった、まだこちらの方が

良いとか。別の人は、だからうちはこのままではうちは負けるとか。神経がマヒしそう

な感覚。平日に冠婚葬祭など本当に休むべき時は1秒でOKがでるが、スキーなどの理由

ではなかなか申請できる雰囲気がない。そのためまず大抵は週末限定で行くしかない。

 

 週末の大渋滞に巻き込まれて大なり小なり皆ヘキヘキ、まして降雪が重なった3連休

最終日の上りでは朝帰りで会社直行レベルも実際に経験。もちろんどんな状況でも月の

朝には必ず会社にいた。ただし月朝の報告会は自分の発言が終わると落ちてしまうが。

 そんな状況で、新人の時に週末のスキーで列車を薦めて一緒に行くことがあった。

帰りに新幹線や特急で食って飲んでその後落ちて帰宅という経験は、それもいいかな、

と言ってその後週末は列車スキーが増えた。その場合ではまず100%幹事役となった。

もちろん近場やたまに休めた平日では、自動車に乗せてもらうこともあったが。

 

 スキー場の場所などの話をして解ったのは、同行の人達の日本の地理感覚がかなり

怪しい点。夜行列車(シュプール信越)で大雪がふる長野で降りて飯山線の早朝の

列車に乗り換え。6時ころから開いていた駅そばで一緒に食っていた友人との会話。

「野沢スキー場って、湯沢ではなく長野の先だったんだ」 学生の頃にバスツアーで

何回か行っていたと聞いたが、往復は100%お任せで何も考えなかったかららしい。

 その友人に限った話ではないようで、長野と新潟の違いも怪しい。別の機会では、

東北のスキー場になると県名も含めてかなり厳しそう。バスツアー全盛期では、近場の

自動車で良くいくスキー場以外は微妙な感じのようであった。そしてそれはスキー場に

限った話ではないらしい。

 

 少し後になる。旅行好きな後輩が入社、バックパッカー的に全国と一部海外も行った

らしい。宴会の席で半分冗談で、「鳥取と島根、広島と岡山、東京に近いのはどっち?」

と軽い気持ちで聞いたら、本当にわからないようで少々驚く。他の人も入って答えるが

解る方はたいてい西の出身の人。正解の人には、「秋田と山形、どっちが・・・」、と

聞くと妙な答えがくる。山形と山梨を間違えた方が1名。質問の内容以前の状態。どう

やら果物で、山形も山梨もよく知られていたから混同したらしい。さすがに山口とは

区別できていた。その延長で、東北6県や四国4県をスラで言える人はほとんどいない。

 本当は、「米子は島根/鳥取のどっち?」「岩国は?」「福山は?」まで考えていたので

あるが、どうもそこまで話が行かない。何かの時に広島出身の方にそれを聞いたことが

ある。その広島出身の人でも随分悩んで迷っていて困惑表情。言われた言葉はおなじみ

「広島に親戚とか知り合いでもいるの?」

 

 ちなみに福塩線は当時の岡山鉄道管理局であり、途中の府中電車区は岡フチの略称。

そのため特に福山や府中は岡山鉄道管理局内で、との無意識の意識がいまだに強い。

最初に福塩線に行った時は、福山も府中も岡山県と錯覚していた。気がついたのは、

しばらくしてから。ある案内図をみて、県境の線は誤植ではないかと思った。しかし

誤りは自分の頭の中、困ったモノ。それ以降は広島県と理解するようにはなった。

誤植は修正されたが、しかし本能的なのか、福山は一瞬でも考える前に口が勝手に動い

て「岡山」と答えてしまいそうになる。危ない。正解は広島県。地名の早押しクイズ

なら、自分の一番注意点となる。

 

 スキーで月山からの帰り、村田ジャンクションで東北道に合流時、友人が運転する

自動車は福島方面ではなく仙台方面に行こうとする。少し待つが、本当に仙台方向から

進路を変えないので「東京は福島方面だよ」というと「え?マジ!」慌てて進路変更。

「福島と仙台なら、仙台の方が南ではなかったっけ? うーん」 でも正直驚いたのは

自分も同じ。ただしその友人の地理感覚が一般的に劣っているとかは、全く思えない。

これが一般人の地元以外での普通の地理感覚なのであろうと思う。先ほどの酒の席の

クイズに、「福島と仙台、南にあるのは・・・」も、追加で入れてもよいかもしれない。

ナビが広く普及する前の時代の話。ナビの必要性と便利性は、このことからだけでも

十分に良くわかるような気がしていた。

 なお、この友人はナビをかなり早めに導入していた。お前少し試してみな、と言う。

最初は主要な地名を入れていたが、結構まともな答えが多いため、急遽意地悪テストに

変更。すると怪しい経路や微妙な道を提案する。面白山スキー場はどうなるのかな?

どんなスキー場、と聞かれて、電車でしかアクセスできないのだけど、と言って入力。

そんなスキー場あるの?まさか線路を通れとかの結果にはならないよな?という友人。

しかし結果はエラー。まあ、そうかも。なお、主要なスキー場は基本OKであった。

 ただし、近くまでは良いが、主要道路を外れてスキー場までの最後の数キロだけは

要注意となる。そんな結果を友人と話した記憶。なおその後ナビの精度は上がっても、

面白山スキー場自体が休止か廃止のようで、まあしょうがないです。

 

 盛岡エリアのスキー場に行く時は、八甲田や新幹線をおりてから在来線に乗り換え。

安比へ行く時は花輪線大館行に乗る。その時に、少し知っている人から聞かれたのは、

「大館ってハチ公の秋田じゃないの?俺たち秋田へ行く列車に乗っていいのかな?」

それだけ知っているなら一般的には十分でしょう。

 実際には新幹線でも怪しい人もいたが、盛岡駅で在来線の発車の掲示をみていると、

行先が全く分からないと、皆口を揃えて言ってくる。どれに乗るの?どこに行くの?

八甲田を降りて、盛岡駅で6時から開く店で軽食、その後に704発の花輪線に乗る時の

こと。例えば掲示板はこんな感じ。

 

  ・710:青森行、746:沼宮内行

  ・723:一ノ関行

  ・704:大館行き

  ・745:大曲行

  ・826:宮古行き

 お前は全部わかるの?行ったことあるの?とも言われた。当然であるが、そんな言い

方は間違ってもしない。人間関係を続けるにあたり細心の注意が要。一瞬考えた後に、

青森がわかればいいんじゃないの?こんな答えをしたように思う。

 

 この時ではないが、雫石に行く時「赤渕行」に乗車の時あり。するとこの列車どこに

行くの?と言われたことがある。どこに行くのって、赤渕行列車は赤渕に行くのだが。

これ以外はあり得ない。しかしそんなことを言ってもしょうがないから、雫石は3個目

です、小岩井の次です、という。小岩井農場は比較的知名度があったようで、あ、盛岡

の近くだったんだ、と納得した?話題を赤渕からそらす。なお、小岩井農場の中には、

観光用に鉄道馬車が復元されており、行きたいと思ってはいた。家族で行ったのはもう

少し後のことになる。

 

 さて大館行きの列車に乗る時、安比高原なら一番後ろがいい、と言うだけではだめ。

左に走るから、右側の車両の後ろがいいです。これが正しい言い方になる。結構重要。

 もう一つ、大糸線でも同じであるがキハ52の半自動ドアについて。やはり手でドアを

あけるという感覚が皆さんなかなか追い付かない。これは改めて触れたいと思う。

 

 

 と、ここまでなら自分は知っているとか錯覚を起こすが、必ずしもプラス面だけとは

限らない。当然問題も実際にあり。

 

 野沢スキー場の場合では、その少し前に、戸狩駅が戸狩野沢温泉駅に改称したから。

一応最寄り駅と場所はそれなりに理解していた。ただし駅名改称があったからであり、

戸狩のままであれば、もしかしたら野沢温泉ではではなく戸狩スキー場に行っていた

かもしれない。ちなみに後日戸狩スキー場も行ったこともあり。妙な屈曲リフトがあり

印象的。どうも、友人とは別の観点で問題がありそうだ。

 

 千葉県市原市ってどこだっけ?と聞かれて、よくわからない。しかし、五井駅で、と

言われて瞬時に理解。市原市以外も似たようなもの。特に最近は市町村の合併が多く、

駅名とは関係がない名前の市が誕生すると本当にわからなくなる。これは怪しい雑記1

で詳しく記載した通り。

 

 駅名だけではなく、地名が鉄道路線に従属のため、時々どうなっているのかその点で

もわからなくなることがある。

 親が知り合いと、長野県飯田近辺(昼神温泉らしい)と岐阜県中津川近辺に行ったと

言われてちょっと意味が解らなかった時あり。自分の頭では、飯田線沿線と中央西線

沿線は完全に別方向だから、同時は基本あり得ない。もちろん行程は、中央道の恵那山

トンネル経由、多分自動車に乗る人は何の疑問も持たず、これは常識で理解であろう。

 そもそも何で中央自動車道は、木曽福島・南木曽経由ではなく、建設が困難な恵那山

トンネルを設置してまで伊那・飯田経由にしたのであろう?沿線人口等を考慮しての

判断であれば、それは当然納得せざるを得ないが。同じことであるが東北自動車道は

大鰐弘前経由であり八戸経由ではない。多少の迂回は理解するが、そもそも東北線と、

花輪線・奥羽線は自分の頭では完全に別世界になる。もちろん経由地の人口などを考慮

は当然あり得るが、八戸と弘前ではそこまで差があるのであろうか?自分の頭では八戸

自動車道の方が本道としそうになる。行く前の構想段階とか、ちょっと聞いたときとか

では誤判断になりかねない。

 

 スキー場でいえば、志賀と草津・万座について。自分の頭では、志賀高原は信越線

で、草津・万座は上越線・吾妻線で完全に別。その間には大きな壁がある。ただしその

壁は春になると雪解けする。シーズン中はいいとして、除雪が済んだ志賀草津高原

ルートが開通すると一体化してしまう。グリーンシーズンに志賀高原に行った人から、

関越道を渋川伊香保で降りて、と言われて、最初は意味がよくわからなかった。

 新宿から高山へ行く高速バスも同じ。中央道経由と聞いたから、多治見経由とかで

最終的に高山線に沿って行くと想像したが、全くの思い違い。松本から安房トンネル

経由だそう。中央西線・大糸線と高山線は全く別であるのは先ほどの例と同じこと。

多少の知識があったりするから、確認しないと大変な誤解になることもありそう。

 

 地方の線区だけではない。自分の頭の中の東京の地図は、山手線を中心にした極座標

である。山手線のターミナルから放射状に国鉄や私鉄の路線が伸びる。そして、その

放射状の路線は住所と一体となり、浮気はない。中央線の人は中央線、西武新宿線の人

は西武新宿線。西武池袋線、東武東上線も同じ。その中間から近い方で決まっている。

現実的には、どちらも使える(ということはどちらも使いにくい)場合も多々あるであ

ろうが。しかし中央線の定期を持つ人が、今日は西武新宿線で帰る、という発想が出て

こない。逆もしかり。意味が解らない。あなたの家は中央線に帰属ではなかったので

しょうか?その人の家の位置が急に少し北にずれた気分。自分の頭の中では、その人の

家は引っ越ししたと認識。全く困ったモノ。

 

 いまま述べた問題もあるが、最悪な例が、モノレール開通前の那覇。自分の基準にな

る駅、特に中央駅のような原点にあたるものと線路という軸がない。地理感覚以前に、

そもそも座標をあらわす原点や軸がない。自分が理解できる手段を全て絶たされてしま

い、地図がない砂漠やジャングルに感じてしまう。まあ、その場合は例えば主要バス

ターミナルが原点で、主要なバス路線が軸になりそうか。

 結局モノレール開通となり、ようやく那覇には自分の頭の地図が少しはできていた。

行ったのは当然モノレール開通後である。空港からモノレールに乗りホテルへ。当然

ホテルは主要駅から激近。まあ、こんなもでしょう。

 

 

赤羽線と埼京線 6(103系高運転台車 黄緑6号 混色編成)

1979/05 赤羽線 十条、池袋34編成103系(クハ103-276)

 

1979/05 赤羽線 十条、池袋34編成103系(クハ103-276)

 

1979/05 赤羽線 十条、池袋34編成103系(クハ103-275)

 

 今回も赤羽線の103系で、両端のクハ103のみ高運転台車となっていた編成になる。

ATC対応のクハ103は高運転台車であり、中間車は初期の車両を連結するという編成

になっており、前回同様である。そのうち両端のクハ103のみが黄緑6号となっていた。

黄緑6号に挟まれるように、中間に黄色5号の車両が6両組み込まれた編成であった。

 撮影当月では、5編成確認のうち上記1編成以外は全部黄色5号の記録になっていた。

ATC準備車(高運転台車)に順に置換が進んではいたが、中間車は初期の編成のまま。

この様な状態がATC優先使用予定線区では続いていくことになる。

 

1979/05 赤羽線 十条、池袋34編成103系(クハ103-276)

 

 上記編成では運転走行自体は上記で可であるが、問題は冷房について。今回の撮影

された池袋34編成の例では、8両編成中で両端1両目と8両目のみ冷房車という状況。

両端のクハ103には冷房電源がなしで、従ってこのままでは冷房は使用できない。

エアコンが実際にあっても、窓全開の非冷房車と全く同じ状態である。このままでは

クレームがあってもおかしくはない?

 なお、それを予想してなのであろうか、後年になるが武蔵野線の3色混色編成で、

クハ103-597(冷房車)に、「この車両は冷房が入りません」という表示のステッカーが

ドア上の張られていた画像が見つかった。となりのモハは非冷房車で冷房電源はなし。

夏のため窓はあちこち開いていた。冷房車の真夏の窓開き画像は貴重?

 ※武蔵野線関係はまだ確認と整理ができていない状態のため、詳細は今後予定。

 

 1984/07/28 武蔵野線 西国分寺、クハ103-597、弱冷車ではありません、非冷車の表示です

誤乗防止ステッカーではないが、こんな掲示も準備されていたのでしょうか?

この非冷房車ステッカーを模型で再現等された方、居りますでしょうかね

居りましたら、忠実再現がとんでもなく素晴らしすぎる、と思います

 

 当時は上記のような編成が続出で、また編成自体も冷房が入る車両と入らない車両の

混在も別途多数あり。自分たちは乗る電車の編成を一瞬見て、冷房が稼働する車両を

直に判定で冷房車へ移動する事(あるいは1本見送り等)も多々あったが、一般の人に

はとても理解困難。そのため、一応であるが、山手線では1~3号車と8~10号車には

冷房車が来る可能性が高い、と言っていた記憶あり。山手線では共通運用のため確率

になってしまうが、私鉄含めた他の線区で、運用が決まっている場合は「冷房車時刻表」

が作成可能になる。自分も含めて当時の列車好きの友人は、大なり小なり自分の利用す

る線区の冷房車時刻表を作成していた。(頭の中だけでの作成も含む)100%冷房車、

共通運用のため日による、基本非冷房車、の3通りになる。そして編成の前/中間/後ろの

どこに並べば冷房車が来る可能性が高いかも重要。なお、弱冷房車という概念が存在し

なかった時代、体調等で強い冷房がない車両を選びたい時は逆の選択もありえた。

 

 

 103系に限ったことではないが、冷房が稼働した車両に実際に乗るには、

  ・①冷房設備がある:当時は冷房車/非冷房車が編成中に混在が多発していた。

  ・②冷房電源がある:モハの冷房電源車が隣等に連結されないと冷房電源なし。

      従って冷房は当然稼働しない。

       ※試作冷房車等では例外で、例えば初期にはクハ103に電源があった。

  ・③冷房を稼働するスイッチがある:クハないしクモハ(乗務員室)が連結。

      モハだけでは通常冷房は稼働しない。

      ただし10両編成で両端クハのみ非冷房で中間のモハやサハは冷房という

      編成において、両端のクハ103の冷房改造が間に合わなかった編成では、

      中間車に冷房のスイッチを暫定で設置した例が実際に少数存在した。

      真夏に上記編成に乗車で、冷房が稼働していた経験あり。

       ※総武中央線緩行等で、いずれまとめで掲載を想定。

  ・④冷房スイッチを入れる乗務員がいる

      中間にはいったMc-Mユニット等では乗務員不在で冷房が稼働せず、

      の可能性

 

 ここまでの条件があるが、もう一つ最重要な要件を忘れているという指摘があった。

  ・⑤冷房のスイッチを乗務員がいれる

      いくら蒸し暑い状態でも、冷房可動時期前では稼働しておらず、がっかり

      した経験。6月等では稼働前の時期あり。

     ※逆に、秋の磐越西線の旧型客車の寒い車内で車掌さんに聞いたところ、

      暖房はあと2週間後からと言われて参った経験あり。(蒸気暖房の頃)

 

 

 冷房が汎用で普及する少し前の頃になる。涼しい車両を求めて、皆必死?であった。

 

 なお、編成については前回の赤羽線と埼京線5を参照下さい。

 

 

  参考:国鉄電車編成表1978/1979/1980

 

 

赤羽線と埼京線 5(103系高運転台車 黄色5号)

1979/05 赤羽線 十条、池袋35編成103系(クハ103-272)

 

1979/05 赤羽線 十条、池袋35編成103系(クハ103-272)

 

 今回も赤羽線103系から。両端のクハ103のみ高運転台車となっていた編成になる。

ATC対応のクハ103は高運転台車で新製となったため、編成1本全部新製車とするような

場合は問題がないが、ATC設置の優先順位で上位の線区には、両端のクハのみ新製車

として、中間車は初期の車両に連結する編成が出現した。従って、新製中間車と上記で

置き換わった初期の先頭車クハ103が連結する逆の編成も、他線区で複数発生した。

 

 103系高運転台車になってから、行先表示は「赤羽線」で統一された様に思われる。

これ以外の表示は、撮影画像からは1コマも見つけることが出来なった。

 

1979/05 赤羽線 十条、池袋35編成103系(クハ103-272)

 

 この編成のモハ103-111/モハ102-187と、モハ103-110/モハ102-188のユニットに

ついて、ユニットの車両番号の順番に違和感あり。自分のメモ記載間違いかと思った

が、国鉄電車編成表でも1978/1979/1980で全部同じ記載のため、記録の間違いではなさ

そう。製造時からなのでしょうか?少々不思議です。

 

1979年の赤羽線編成(再)

 

 

  参考:国鉄電車編成表1978/1979/1980

 

 

赤羽線と埼京線 4(103系 黄緑6号低運転台車)

1978/05 赤羽線 十条、赤羽線103系 池袋33編成(クハ103-53)

1978/04 赤羽線 十条、赤羽線103系 池袋33編成(クハ103-54)

 

 今回も赤羽線103系低運転車であるが、黄緑6号の塗装の編成になる。撮影時期の1978

年春頃は、黄色5号の赤羽線103系の方が珍しかった記憶あり。塗装変更前のこの頃の

車両には、ドア上に誤乗防止ステッカーが貼られていた。黒文字で黄色のシールの様な

感じに見えた。白地ではなく黄色地の使用は赤羽線のラインカラーを意識と思われる。

模型等で再現の方は、黄色地に注意となる。黄色は明度が基本的には高いため、白地と

同様にバックとして使用は視認性に問題がとても少ないから、使用が可能と思われる。

もし同じことを常磐快速線で行なうなら、薄めの緑を使用するか、逆に文字を白にする

等の工夫が要であろう。

 

1978/03 赤羽線 103系、誤乗防止ステッカー

 赤羽線の誤乗防止ステッカーは、この頃しか見ていなかったようである。103系でも

高運台車になると、この表示がある撮影画像は見つけられず。従ってこのステッカーは

あまり長期間見られたわけではなさそう。なお、混色電車自体は横浜線と同様に頻繁に

見られたが、赤羽線の黄色5号の車両にはこの誤乗防止ステッカーは貼られなかった。

当然だろうと思われるが、横浜線では当然ではない。本来の黄緑6号でも先頭やドア上

でも表示が見られた(ドア上は無い場合が多かったが)。これだけからみても、混色

レベルNo1は圧倒的に横浜線であり、赤羽線は1位にはなれない。そもそも日本国有鉄道

が、正規の色でも間違う可能性を横浜線では認識していた、と言う点において決定的に

異なると思う。

 

 

 撮影の池袋33編成のクハ103の行き先表示について、昨日と同様の2駅2段の表示が

あるだけではなく、2駅1段表示もあり。この羽の文字の表記はあまり違和感がない。

ただし、2回前の101系の2駅1段表示とは異なっており、101系では駅の表示は縦書き

であったが103系では横書きになる。行先表示の方向幕の寸法差等から変更があった

のであろうか?なかなか興味深い点になる。なお、池袋33編成の両端のクハ103-53と

クハ103-54で表示が異なるのは、どうしたのであろうか。

 

1978/05 赤羽線 板橋、赤羽線103系 池袋33編成(クハ103-53)

 

 103系低運転台車の運行時期はどうも長くなかったらしく、国鉄電車編成表1980年

では見られない状況、およそ2年弱であろうか。この後は高運転台車となっていた。

 

 なお、推定含む1978年と1979年の編成は、前回(赤羽線と埼京線 3)を参照下さい。

 

 

  参考:国鉄電車編成表1978/1979/1980

 

 

赤羽線と埼京線 3(103系 黄色5号低運転台車)

1979/05 赤羽線 十条、池袋32編成103系(クハ103-50)

 

1979/05 赤羽線 十条、池袋32編成103系(クハ103-50)

 

 今回は赤羽線103系から。1977年11月では101系の撮影であったが、1978年4月では

103系になっていた。ただし当初は山手線からと思われる黄緑6号の車両ばかりであり、

黄色5号の赤羽線塗装車はまだ少数。少しずつ塗装変更が進んでいたように思われる。

翌年になると、高運転台車が見らえるようになった。(次々回以降)

 

1978/04 赤羽線 板橋、池袋32編成103系(クハ103-49)

 

 今回の編成のクハ103では、行先表示が2駅2段になっていた。よく見ると101系とは

少し異なり、ローマ字表記が最下段にまとまっていた。(3段表記にも見える)また、

赤羽の羽の文字の表記に違いが見られる。今回103系で見られた字体には違和感あり。

このあたり、どのような事情があるのかよくわからなかったが、表示が複数あることは

間違いない様である。

 

 当時は、黄色5号の103系が珍しかった。ただし、このあと国鉄電車編成表1980では

全部高運転台車になっていたため、103系低運転台車の赤羽線使用時期は2年程度?

意外と短かったようである。

 

 記録が少なく記載自体も不十分なため、以下御参考です。

 

 

  以下は1978年と1979年の編成になる。(推定含む)

1978年の赤羽線編成

1979年の赤羽線編成

 

 

 

  参考:国鉄電車編成表1978/1979/1980

 

 

赤羽線と埼京線 2(101系)

1977/11 赤羽線 赤羽、池袋31編成101系(クモハ100)

 今回も赤羽線101系から。最初は地上ホームの赤羽駅になる。赤羽線の時代では、

埼玉地区から新宿方面へは、赤羽と池袋で2回の乗換えが発生、とても大変であった。

赤羽線が5番線ということは、京浜東北線が1番2番、東北線高崎線が3番4番であろう。

重要な駅のはずなのに少々貧弱な設備と感じてしまう。

 ちなみに、左隅にみえる東北線高崎線の3番4番ホームは赤羽線の5番線と同じく地上

ホームであるが、さらに左にあった京浜東北線の1番2番ホームは、少し高いという中途

半端位置な高さ。そのため、乗換はとても面倒。京浜東北線を降りたら、まず階段を

下りて移動、そして東北線高崎線への通路へ向かうため一度階段を上がり、画像左上の

高架連絡橋をそのまま直進して、3番4番へ降りる階段を左右に見てさらに進むこと。

すると、ようやく赤羽線の5番へ降りる階段となる。

 バリアフリーではなく、階段だらけのバリアフルの厳しい例であり、エスカレーター

等は全く記憶にない。京浜東北線のホームがもっと高い位置にあれば、階段を2回だけ

下りる(逆の場合は2回上る)、で済むから納得する。あるいは東北線高崎線と同じ高さ

でもよい。階段を上る+下りるの各1回合計2回で済む。しかし上り下りの合計3回は、

階段しかない前提は利用者目線ではちょっと面倒すぎる。個人的には、大改装を勝手に

希望したい候補の筆頭レベルの駅であると、当時思っていた。

 

 

 画像の101系であるが、行先表示を見ると、池袋-赤羽で2駅1段の表示であった。

池袋も赤羽も、スペースの関係でか、縦での表示となっている。1段表示はこの後の

103系でも見られたが、頻度が少ないと感じる。2駅2段表示の印象がとても強かった。

編成札は31、赤羽線はこの後でも30番台の数値ばかりであった。

 

1977/11 赤羽線 十条、池袋32編成101系(クモハ100他、8両)

 もう1枚は、十条駅(池袋方面行)に停車中の101系8両編成である。

   池袋←Mc101/M’100/M101/M’100/T/T/M101/Mc100→赤羽

    画像で見える最後部クモハ100の行先表示は、上段池袋←と、下段→赤羽、の表示の

2駅2段になっていた。こちらの表示をよく見た記憶がある。そもそも何で1段表示と

2段表示が共存しているのであろう?表示の主旨は同じであるから誤認識の可能性は

どちらも大丈夫と思われるが。南武支線の101系も記憶が間違っていなければ、同様で

あった可能性。

 好みもあると思われるが、模型等を製作の方は1段表示と2段表示のどちらの再現が

多いでしょうか?

 

 十条駅の構造上では、8両編成全体を撮ろうとすると、当時は一番適切と思っており、

その後の103系等も十条での撮影が多いようである。10両になっても地上駅の十条は、

大きくはかわっていないように感じられる。

 

 赤羽線の101系の画像は少なく、翌年では103系(低運転台車)の撮影画像になって

しまっていた。これは次回以降予定。