一睡の夢:国鉄末期の12年

40年ほど前の国鉄時代の記録

飯田線旧型国電最後の力走24-2(68412/64000)

1983/05/04 飯田線 伊那大島、237M 伊那大島行、クハ68412/クモハユニ64000

 今回はクモハユニ64000と連結のクハ68412。4両編成の中間が多く先頭に出にくい。

2両編成になる運用は、平日土曜の朝の天竜峡/伊那大島間往復の237M/228Mになる。

5月の3連休のうち5月4日は土曜のため運転、土曜はまだ休日扱いではなく良かった。

 半流のクハ68にしては、少々印象が異なるのは、どうも幌や幌枠がないからか?

末期の飯田線では、幌は撤去でも幌枠は残した車両が多かったため違和感があった。

 

1981/07/26 飯田線 木ノ下、226M、クハ68412

 運転席側2位4位側の停止しての撮影画像がなく、見苦しいものとなってしまった。

1983/07/23 飯田線 中部天竜、クハ68412

 正面助手席側の窓は2段であった。正面ドアの幌枠が撤去されていることがわかる。

飯田線の旧型国電 増補版、によると、1978年の半数置換前は幌枠があった記載あり。

その後撤去された様である。

 行先表示板枠が窓下中央ドアの左側ではなく右側にある。右側の車両は少ない。

 さらに、運転室の乗務員用のドア上に、ヘッダーが見られる。通常は客ドア上のみ。

模型製作であれば、誤製作になりそう。1940年製クハ55083~092の10両については、

30系から80系までのP40に、乗務員ドア上にもヘッダーがある異端車の記載あり。

試作扱いなのか、帝国車両の製造現場判断の扱いなのか、本当に誤製造なのか不明。

クハ55083~092

 旧型国電車両台帳から、該当10両の経緯をみると、飯田線の①クハ68412以外に、

身延線、③宇部小野田線(以下宇部線)④(信越線)の撮影画像があることが判明。

確認で、3両とも①クハ68412と同様の、乗務員ドア上にヘッダーがある形態であった。

下は参考になるが、③のクハ55090(宇部線)になる。

 

1980/07/23 宇部線 宇部新川、クハ55090

 塗装は異なるが、同様に運転室の乗務員ドア上のヘッダーが確認できた。

なお宇部線では、幌枠の車両は少なくこれが普通。旧40系の半流車でも、東京地区の

青梅線のクモハ40の印象から、茶色塗装では幌枠がない方が標準であると感じていた。

しかし、飯田線の2色の横須賀色では、逆に幌枠がある印象が強くなってしまう。

なお、宇部線小野田線)については、今後いずれまとめたいと思います。

 

  クハ68412←68106←55092(1940年年製)

 

  参考:旧型国電車両台帳、国鉄電車の歩み(30系から80系まで)、

     国鉄電車ガイドブック 旧性能電車(上)、飯田線の旧型国電 増補版

     時刻表 1983/03、1981/07他

 

 

飯田線旧型国電最後の力走24(64000/68412)

1981/07/26 飯田線 北殿/木ノ下、226M 伊那福岡行、
クモハユニ64000/クハ68412/クモハ54129/クハ68420

 茶色のまま運用に入るクモハユニ64000。1978年の半数置換後に新たに転属配置。

その時から1981年後半まで茶色。撮れた画像はBWばかりでCL無し、とても残念。

クハユニと共通運用で使用されていたため、7両配置で6運用では確率は1/7になる。

 

1981/07/25 飯田線 伊那北、261M 辰野行、クモハユニ64000

 運転席窓はこの時はまだ木枠のまま。こののち浜松工場入場時にHゴム改造された。

同行者が後に、塗装変更はともかく、運転席窓のHゴム化を相当嘆いていた記憶あり。

 運転席窓下のジャンパーケーブルの受けが、どうも後から付けられたように見える。

1978年以前は下り偶数向きで使用らしく、飯田線使用の上り奇数向きとは異なる。

床下については、運転席側2位4位側は空気側、助手席側1位3位側は電気側、に思える。

下り偶数向き車両が、飯田線転入時に上り向きに方向転換の様である。

1981/07/26 飯田線 木ノ下、226M 伊那福岡行、クモハユニ64000

 

1980/11/29 飯田線 辰野、256M 平岡行、クモハユニ64000

 車内についてはクハユニ56と異なり、ロングシートで半室の広間のような雰囲気。

なお、客室の隣は郵便室、その先に荷物室のはずであるが、表記は荷物室であった。

豊橋/辰野間の長距離運用に頻繁に入るが、長時間のロングシートはどうでしょう。

 

1980/11/29 飯田線 辰野、256M 平岡行、クモハユニ64000

 そもそもクモハユニ64000であり、001ではないことから改番時は偶数車を想定?

あるいはクモハユニ64は全部偶数車設定で2号車も001を仮に想定であった可能性?

ただ、結局1型式1両であったため、勝手な妄想だけになります。

飯田線転属時に、クモハユニ64001に改番しても良かった???

 (上記は勝手な個人的な妄想レベルの意見のため、これ以上は控えます。)

 

  クモハユニ64000←44100←61001(1943年製)

 

 戦中に横須賀線の郵便荷物合造車として3両製造。電装部品不足でモーター無し。

その後1両001のみ電装された。形態的には客ドア間の窓が6個で旧51系に見える。

しかし戦中でロングシートで製造された。その後は各種改造を繰り返し、型式も変更。

車内座席セミクロス配置(ロングシートに戻る)、運転室増設、パンタ移動、他あり。

増設側運転室直後の窓が戸袋窓に注意。(新設では、この窓は通常戸袋窓にしない)

 資料では大糸線身延線、岡山地区でも使用。その後事業用の牽引車代用を経ている。

1978年の飯田線半数置換で、クハユニが6両配置のまま4運用から6運用になったため、

再び営業用に戻った経緯。クハニ67を廃車にしてその運用を統合したためになる。

しかしクモハユニを入れても、7両配置6両使用ではやりくりが大変であったと推定。

それにしても、一度事業用代用になった車両が営業に復帰とは、当時驚いた記憶あり。

 なお、モハユニ61として製造された3両中、最後まで電装されなかった他の2両は、

飯田線クハユニ56011と012になる。大元は同じであるため、形態がよく似ている。

戦前の配置された頃と同じく共通で使用された状態で、1983年の置換を迎えていた。

 

  参考:旧型国電車両台帳、国鉄電車の歩み(30系から80系まで)、

     国鉄電車ガイドブック 旧性能電車(上)、飯田線の旧型国電 増補版

     時刻表 1981/07、他

 

 

飯田線旧型国電最後の力走23-2(51029/68400)

1982/03/10 飯田線 大田切/宮田、238M 平岡行、クモハ51029/クハ68400

 今回は、1982年から1983年最末期にクハ68042と連結になっていたクモハ51029。

ただし走行撮影では先頭に出なかったため、それ以前のクハ68400と連結画像になる。

おなじみ2両編成の平岡行238M、晴れた日で背景に中央アルプスの残雪が見られた。

2両編成が午前中に撮影できるのは、通常は238Mだけであるため、狙ってしまう。

この撮影地点はとても良く知られており、順光の午前中に撮影を何回か行なっていた。

 

1983/04/09 飯田線 伊那松島機関区、クモハ51029

1982/03/10 飯田線 大田切、238M、クモハ51029

1983/04/09 飯田線 伊那松島機関区、クモハ51029

   クモハ51029←(51029)(1936年年製)

 

 旧51系のクモハ51/クモハ54は、客ドア間の窓が6個、上り奇数向きは2両あり。

クモハ51029とクモハ54001、後者はモーター出力増強のため、外観は似ている。

客ドアが、中央を除いて、助手席側1位3位側、運転席側2位4位側とも二枚ガラス。

中央ドアは1枚ガラス、運転席側2位4位の中央客ドアはプレスがないタイプに見える。

 なお、クモハ54001は、客ドア6か所とも全部2枚ガラスのため、区別は可能。

 1982年の中頃に連結相手がトイレの無いクハ68042に変更で、限定運用となった。

そのため運用中では先頭には出なくなり、2両単独運用には入らなくなってしまった。

 

  参考:旧型国電車両台帳、国鉄電車の歩み(30系から80系まで)、

     国鉄電車ガイドブック 旧性能電車(上)、飯田線の旧型国電 増補版

     時刻表 1981/12、他

 

 

 

 

飯田線旧型国電最後の力走23(68042/51029)

1983/05/05 飯田線 伊那松島/沢、回251M 辰野行、
クハ68042/クモハ51029/クモハ54006/クハユニ56003

 今回はクハ68042/クモハ51029の編成。5月の3連休も夕方までよく晴れてくれた。

水田がある程度鏡面になっている。さすがに無風がベストであるが期待しすぎ?

伊那松島を出庫して辰野へ向かう回送。後ろ上り側にクハユニがある4両編成になる。

伊那松島発下りは、247M/14:33の後は255M/16:13の間に回送が249/251Mと2本続く。

経費は最小で済むはずだから営業運転を行なえばよいと、素人的に勝手に思っていた。

 

1981/07/25 飯田線 伊那松島機関区、クハ68042

1983/03/05 飯田線 伊那松島機関区、クハ68042

1983/04/09 飯田線 辰野、236M 沢渡行、クハ68042

  車内は木目が目立つ。旧51系クハ68では一番製造当初に近い形態と思われる。

 まさに旧型国電のイメージそのもの。

 

  クハ68042←55125←68011(1937年製)

 1978年の半数置換後に残ったクハ/クハユニの中で、唯一トイレなしの車両になる。

80系投入で半数置換後は、極力トイレ無しの運用をなくそうとしたと聞いたことあり。

そのため当初は誤記載で、廃車はクハ68042で残存がクハ68402と本当に思っていた。

トイレありの2ドア車クハ47の下り偶数車もあり、クハ68042が選ばれた理由は不明。

 可能性では、クハ68402が最終段階で不具合が見つかり、修正改造は費用で厳しい?

 または本当に誤記載で、正式資産廃却申請承認済で戻せない?公官庁は厳しいから。

外部の勝手な推定で、上記はあくまで勝手な個人の意見であり、ご参考レベルです。

 いずれにしろ、クハ68042と組む2両編成は、単独運用は避ける特区別運用となった。

当初はクモハ53007になる。これが以下、73/71→72→73/71→72、の繰り返し。

飯田線伊那松島機関区73/71と72運用

 これをみると、クハ68042/クモハ53007は、常にクハユニ編成と下り側に連結。

よってクハ68042は常に先頭最後部で、クモハ53007は常に中間に入り込む運用。

他の方の当時の撮影でもクハ68042の画像が多く見られるのはこの理由になる。

逆にクモハ53007が先頭に出るのは、運用中は飯田で22:05~翌朝7:21までしかない。

明るいうちに撮影と思うと、1222Mの飯田増結作業中しか機会がないという状態。

 それでは伊那松島機関区で許可を得て、と思いたいが、これにも落とし穴。

73/71運用の相手のクハユニは、編成替えがなければそのまま同じ編成として出庫。

クハユニ編成はクモハユニも入れて6両使用で7両配置のため予備1両で少し苦しい。

大抵は伊那松島機関区入庫で、なんかの点検など編成替え含めてばらされる可能性。

しかし運がものすごく悪いと、伊那松島機関区内でも連結されたままもあり得るか?

 これには参った。何とかならないかと思っていたら、何と1982/03~11に編成替え。

そのため2-2(53007/68400)や2-3(同)の2両編成等が撮れるようになった。

 置き換わった車両はクモハ51029。理由は不明。クモハ51029はモーター出力が

少し低いため、もし4両編成半固定にするなら望ましいのではないかと勝手に理解。

そのため、今度はクモハ51029が先頭に出なくなってしまった。

 

  参考:旧型国電車両台帳、国鉄電車の歩み(30系から80系まで)、

     国鉄電車ガイドブック 旧性能電車(上)、飯田線の旧型国電 増補版

     時刻表 1983/03、他

 

 

飯田線旧型国電最後の力走2-3(53007/68400)

1982/11/27 飯田線 平岡/為栗、253M 天竜峡行、クモハ53007/クハ68400

 昼過ぎの2両253Mに、クモハ53007/クハ68400が入った。陽もうまく当たっている。

水面は残念ながら鏡面まではいかなかったが、多少とも映った姿は見られていた。

 天竜峡から上り電車に乗ると、天竜川を渡って川の東側を線路が走るようになる。

そのため南北に走る線路は昼から午後に順光、為栗近傍も概略そのような状態。

従って、85運用単独2両編成の昼の238Mと253Mは、特に貴重で狙いたい電車になる。

旧型国電4両編成では1226M狙い、これ以降は日が短い季節は陽が当たらない可能性。

80系は257Mを狙うことになる。当時の為栗駅の時刻再現を下に再現、御参照。

時刻表1982/09から、飯田線為栗駅発車時刻を抜粋

 駅前に民家二軒のみの超閑散駅にしては、この本数は多いように感じてしまう。

飯田まで早ければ1時間15分程度?、天竜峡や平岡までならもっと短い時間で可能。

通勤通学で通えなくはないが、自動車乗入不可の駅前民家に住んだらどうでしょう?

ちなみに4:49発の下り229Mに乗れば、天竜峡でこまがね2号、天竜3号に接続する。

新宿着11:43、長野着9:52。国鉄のネットワークはそれなりに機能していたと実感。

 

1982/11/28 飯田線 辰野、クモハ53007

 なお運用番号は、11/27の平岡/為栗での撮影日の85のまま(本当は86のはず)。

この時に限らず、運用番号の表示は、時々前日のままという場面に遭遇していた。

 

1980/07/20 飯田線 豊橋、833M 豊川行、クハ68042/クモハ53007

 クモハ53007の連結面。幌上の連結面側の通風機は、既に塞がれていた。

 

1983/03/05 中央線 辰野、223M 茅野行、伊那大島発の4両に辰野から2両増結
クモハ53007/クハ68400/クモハ54133/クハ68409/クモハ43015/クハ68414

 飯田線から、朝の中央線乗入の6両編成223Mの最後部になるクモハ53007。

中央線乗入の朝の223M/238Mの茅野/辰野間と、夜間の1232Mの天竜峡/豊橋間では

旧型国電の6両が見られた。(1232Mはクモニ83/クモニ13等含む6両編成になる。)

上記以外に、豊橋近傍では80系の4+2両編成も朝夕に2運用存在していた。

 

 

  参考:旧型国電車両台帳、国鉄電車の歩み(30系から80系まで)、

     国鉄電車ガイドブック 旧性能電車(上)、飯田線の旧型国電 増補版

     時刻表 1982/09、1983/03他

 

 

飯田線旧型国電最後の力走2-2(53007/68400)

1982/11/27 飯田線 平岡/為栗、238M 平岡行、クモハ53007/クハ68400

 2(53007/68400)でも触れた編成になるが、2両でこの区間の走行の画像になる。

クモハ53007は、撮影画像から1982/03~1982/11に、連結相手が変更になっていた。

トイレの無いクハ68042から、トイレがあるクハ68400であり、そのため運用も変更。

1983年の置換のおよそ1年前の間は、通常でも2両編成単独運用にも入るようになった。

クモハ53007が先頭になる走行を見たのは、1978年以来4年ぶりのことになる。

 

1982/03/09 飯田線 飯田、1222M増結、クモハ53007

 朝7:07に1222M到着、下り側に2両増結停車。その増結車のクモハ53007を撮影。

張上屋根/大窓/ノーシールノーヘッダーの半流車は、他の旧型国電とはまた別の魅力。

戦前の京阪神間の急行電車の雰囲気。ただし、ゆっくりと観察している時間はない。

当時明るいうちにクモハ53007の先頭を撮影できるのは、この連結直前の数分間だけ。

連結終了後には、7:21発の1222Mに再び乗車、飯田からは増結の53007に乗車しよう。

 これ以外では、22時ころに飯田で256Mで切離しの時と、伊那松島機関区内でのみ。

このころの撮影の方から、クモハ53007が先頭に出てくれないという文面をよく見る。

自分も全く同じ気持ち。運用が変わるか(4両でも上り側になる、とか)、あるいは、

連結相手のトイレ無しクハ68042が変わるか、どうにかならないかと思っていた。

 

1980/11/29、飯田駅

 飯田線の中心駅になる。当時は急行が多数存在し、文字通り交通の拠点であった。

 

  参考:旧型国電車両台帳、国鉄電車の歩み(30系から80系まで)、

     国鉄電車ガイドブック 旧性能電車(上)、飯田線の旧型国電 増補版

     時刻表 1982/09、1981/12他

 

 

飯田線旧型国電最後の力走3-2(54125/68418)

1980/11/29 飯田線 金野/千代、253M 天竜峡行、クモハ54125/クハ68418

 天竜峡から平岡までは、あまり行きやすくない割には撮影画像が多く残っていた。

金野も何回か訪れているが、2両編成は特に気に入っていた。238Mや253Mは狙い。

ところで上記が全体的に少々赤味があるように感じるのは錯覚?前後のコマも同じ。

36枚撮りコダクロームKRの最初の方のコマの何枚かになる。しかしその後半のほうで、

翌日の大糸線の画像がそれなりのため、上記は本当に補正はしない方向と勝手に解釈。

そのため、取り込んだ画像を明度だけ若干上げて、載せています。

 

 ここも駅前は超閑散状態。駅の画像が見つからず。家屋が1軒あったような記憶。

上記の見通せる地点まで歩いて15分程度、人の生活の気配があまり感じらえなかった。

 

1980/11/29、金野駅

  

  参考:旧型国電車両台帳、国鉄電車の歩み(30系から80系まで)、

     国鉄電車ガイドブック 旧性能電車(上)、飯田線の旧型国電 増補版

     時刻表 1980/07、他