一睡の夢:国鉄末期の12年

40年ほど前の国鉄時代の記録

飯田線旧型国電最後の力走22-2(54133/68409)

1982/03/09 飯田線 千代駅、238M平岡行到着、クモハ54133/クハ68409

 天竜峡の隣の千代駅。上り電車はここからは平野部が少ない山間の区間を走行。

千代もその閑散区間の駅で、天竜川と山に囲まれた人気がしない雰囲気の駅になる。

2両の238M平岡行が到着、下車客は無しで自分が乗車しただけの記憶。為栗まで乗車。

 

1980/11/29、千代駅

 

1982/03/09 飯田線 為栗駅、238M平岡行発車、クハ68409/クモハ54133

 為栗で降りて、駅前から、乗車してきた238Mを後ろから撮ったところになる。

駅前と言っても降りるスロープと1本の道があるだけ。線路に沿ってその道が見える。

これが為栗駅前のメインロード。238Mは、その為栗駅のホームを離れた直後になる。

何と自分以外に一般の人が二名下車、これから歩いて正面の天竜川の橋を渡るようだ。

自分もこの後に、天竜川の橋を渡ることになる。

 

1982/03/09 飯田線 為栗駅、253M天竜峡行発車、クモハ54133/クハ68409

 先ほどの238Mが隣の平岡から253Mとして戻ってきた。とても撮影効率が良い?

その238Mと為栗駅を先ほどの橋上から撮った画像が上。手前ホームと茶色の待合室。

線路の向こう側に、民家が2軒家?(1軒と離れ?)が見られる。駅はこの民家専用?

この238Mを温田方面で同じ場所から遠目で撮影したのが前回の最初の画像になる。

同じ飯田線でも、北部中部南部それぞれで、全く雰囲気が異なる撮影ができた。

 

 

  参考:旧型国電車両台帳、国鉄電車の歩み(30系から80系まで)、

     国鉄電車ガイドブック 旧性能電車(上)、飯田線の旧型国電 増補版

     時刻表 1981/12、他

 

 

飯田線旧型国電最後の力走22(54133/68409)

1982/03/09 飯田線 為栗/温田、253M天竜峡行、クモハ54133/クハ68409

 飯田線の旧三信鉄道区間、山中の閑散区間をいく2両編成の区間運転下り253M。

今回はちょうど橋の真ん中で収めた状態であるが、2両なら収まってしまう長さ。

本数は多くは無いが、4両より2両の方が好ましいと勝手に思ってしまっていた。

川の流れの音だけが少し聞こえる静かな中、ゆっくりと走行の電車が遠くで見える。

ちなみに、構えた位置は、為栗駅前の天竜川を渡る橋の上から、になったと記憶。

 

1980/11/03 飯田線 田切、1221M、クモハ54133

 クモハ54133の運転席側2位4位側が、止まっての撮影画像が見つからずで代用。

旧40系の座席をロングシートからセミクロスシート改造車で、数量的には多かった。

上りき奇数向きは6両であるが、行先表示板枠が窓上は54131と54133の2両になる。

運転席側の正面窓下、テールランプの上に、小通風機塞ぎ跡があるため54133となる。

 

1983/03/05 飯田線 辰野、クモハ54133

  クモハ54133←60105(1941年製)

 正面助手席側の木枠窓で、窓上の木枠が大きい方が54133、であるため区別可能。

なお、窓下の組枠が大きい方が54131になる。詳細は、6(68410/54111)参照。

 

1983/04/09 飯田線 辰野、クハ68409

 

1978/08/08 飯田線 豊橋、クハ68409

  クハ68409←68064←55015(1932年製)

 クハ68409も同じく旧40系の改造車。トイレ増設。奇数番号であるが下り偶数向き。

旧40系改造のクハ68の区別詳細は、19(43015/68414)参照。

 

 

  参考:旧型国電車両台帳、国鉄電車の歩み(30系から80系まで)、

     国鉄電車ガイドブック 旧性能電車(上)、飯田線の旧型国電 増補版

     時刻表 1981/12、他

 

 

飯田線旧型国電最後の力走21(54001/68406) 

1983/03/06 飯田線 木ノ下/伊那松島、238M 平岡行
クモハ54001/クハ68406

 中央アルプスの残雪を背に走行の238Mは、2両編成。茅野発では6両で辰野から4両、

そして伊那松島で2両に減車で平岡まで走行。2両編成はとても好ましく感じてしまう。

クモハ54001の客ドアが3枚とも2枚ガラスであることが目立つ。これも好ましい。

 

1983/07/23 飯田線 中部天竜、クモハ54001

 運用終了後は中部天竜に留置。パンタグラフを降ろして廃車待ちの姿はさみしい。

 

1983/03/06 飯田線 辰野、クモハ54001

 運転助手席側1位3位側客ドアも全部2枚ガラスであり、特に末期では目立っていた。

1983/07/23 飯田線 中部天竜、クモハ54001

  クモハ54001←(54001)(1937年製)

 トップ番号クモハ54001は末期まで残っていた。リベットがよく見られる。

 

 

1982/03/10 飯田線 伊那松島、1228M、クハ68406

1983/03/06 飯田線 伊那松島、238M、クハ68406

  クハ68406←68034←55120←68006(1936年製)

 クハ68406は、残念ながら停止しての撮影画像がどうしても見つからなかった。

そのため、運転席側2位4位側、助手席側1位3位側とも厳しい画像になってしまった。

お恥ずかしい限り、どうも相性が悪いのか見落としか撮影漏れが発生。困ったもの。

ただ、走行写真画像でも、あっただけまだよかったのでしょう。

 

  参考:旧型国電車両台帳、国鉄電車の歩み(30系から80系まで)、

     国鉄電車ガイドブック 旧性能電車(上)、飯田線の旧型国電 増補版

     時刻表 1983/03、他

 

 

飯田線80系普通電車9

1982/03/16 飯田線 三河槇原/柿平、633M、中部天竜

 飯田線南部ではよく知ら得た撮影地点。1976年と1978年では真夏の酷暑時期。

そのため三河槇原は暑いイメージと重複。その後1度春に来たその時の画像になる。

飯田線南部区間でも日中は、戦前車と80系は半々程度に交互に走行と感じていた。

 この時は南部区間だけ。「青春18のびのび切符」が発売されたときでそれを利用。

信州ワイド周遊券中井侍より北は自由乗降区間、しかし南部は往復使用できるだけ。

そのため今回は重宝。費用削減で、この後北部区間でも何回も使用させていただいた。

学生の時期は、ヘビーユーザーと化してしまっていた。

 

1978/08/10、飯田線 三河槇原、627M、中部天竜行、クモハ54104

 前回タブレット走行授受で、授け側装置を提示したが、受け側の装置も見つかった。

ただし普通電車のため、実際に運転助手が投げ入れる場面の画像ではないのが残念。

三河槇原駅の上り豊橋側のホーム先端に設置。螺旋の先端に投げ入れることになる。

この駅では、通過する急行も左側走行のようで、右側のホーム側に設置されていた。

 先頭のクモハ54104は、残念ながらこの後の1978年半数置換時に廃車の対象。

伊那松島所属の旧型国電も、半数弱が置き換わってしまった。

 

  参考:飯田線の旧型国電(増補版)

     時刻表 1981/12、1978/07

飯田線80系普通電車8と165系

1982/03/11 飯田線 伊那新町、239M上諏訪行80系と、4401Mこまがね1号天竜峡
クハ86339、クハ165-148

 伊那新町で右側の80系の下り239Mが、165系の4401M急行駒ヶ根1号の交換待ち。

飯田線に限らず、大糸線でも身延線でも、旧型国電撮影で165系急行にはよく遭遇。

手前の80系の特に300番台車は、後継165に比べ、見劣りするような感じがしない。

冷房がない点は夏は劣るが、それ以外は完成された電車のイメージすら覚えてしまう。

これは個人的な意見で当然別の意見もあろうが、戦前車と同じ年に廃車には違和感。

 

 島式ホームの伊那新町では、タブレット交換のため239Mは右側通行で入線停止中。

左側の4401Mは徐行で通過、運転席窓からタブレットを受け取った直後の様に見える。

 このころの単線区間の走行の急行は、タブレットの通過授受が良く行われていた。

急行が徐行で走行中に、運転助手が、前の区間タブレットを受ける装置に投げて、

次の区間タブレットを授ける装置から取る、事が行なわれていた。それが下画像。

 

1976/08/11 飯田線 城西、急行伊那8号(608M)通過

 城西駅を通過する上り急行伊那8号の運転助手が、まさにタブレットを取った直後。

タブレットを設置していた授ける装置の白いアームが上に上がっていくことになる。

画像ではそのアームが少し上がり、タブレットが取られた直後であることがわかる。

自動信号ではない時代は、駅にも運転要員が要、運転助手も要で、人手がかかる。

しかしそれが40年前の支線での急行では、毎日にように普通に行われていた。

 

 ちなみに、伊那8号の号車札は7にみえる。すなわち7号車。飯田線の最長編成。

豊橋/飯田間は伊那1/伊那8号は7両運転、飯田から辰野まで4両運転であった。

 

  参考:飯田線の旧型国電(増補版)

     時刻表 1981/12、1976/06

 

飯田線80系普通電車7とクモニ83103

1982/03/11 飯田線 伊那新町/宮木、240M 飯田行、80系

  昼少し前の80系上り240M飯田行は、このあと伊那新町で下り245Mと交換。

これが次の画像になる。最後部は横須賀色のクモニ83103。元湘南色の81006。

 

1982/03/11 飯田線 伊那新町/宮木、245M 辰野行、
クモニ83103/クモニ13026/クハ68405/クモハ54108

 もし飯田線にクハ76が配置されていたら、これに似たような撮影ができた可能性?

同じく4両編成のため、クハ76/モハ70/モハ70/クハ76の様な編成を妄想してしまう。

 

 ちなみに1978年の半数置換前は、豊橋機関区に3ドア化されたサハ75が4両配置あり。

31~34運用の中間車に使用で、夜間にここを通り1往復辰野まで来る運用があった。

飯田線の70系自体の配置は、クハ76やモハ70でなければ、あるにはあったことになる。

 

1976/08/11 飯田線 豊橋機関区、サハ75103
(左クモハ52001/サハ75103/右サハ75101/奥で見えずクモハ52004)

 中央ドア増設のサハ75101。サロ75でサハ75に格下げ後に、3ドア化された車両。

101/102/103/106の4両の配置があり、4両編成固定の運用の中間に使用されていた。

飯田線以外には、中央西線でも3ドア化されたサハ75が70系の6両編成で見られた。

その他では、上信越線の新潟色のサハ75が2ドアで70系6両編成で使用されていた。

残念ながら当時のネガ画像の劣化が進み、色域も劣化変化してしまっている。

 豊橋機関区の飯田線サハは他にあと4両あり、48021/48024、48034、そしてもう1両

87001(横須賀色の80系サハ)が使用で、4両固定編成の中間車として使用であった。

 これらは1978年の半数置換対象となり、クモハ52とともに廃車となってしまった。

 なお1976年ころは、豊橋機関区では許可を得れば撮影が許されていた事情あり。

この時は数人で一緒に入構で、撮影できた状態であった。

 

 

  参考:旧型国電車両台帳、国鉄電車の歩み(30系から80系まで)、

     国鉄電車ガイドブック 旧性能電車(下)、飯田線の旧型国電 増補版

     時刻表 1981/12

 

 

 

飯田線80系普通電車6

1982/03/10 飯田線 伊那松島/沢、242M 駒ヶ根行、80系

 昼過ぎの上り駒ヶ根行の80系普通電車。1978年までは戦前車2両の運用であった。

昼間は概略1時間に1本程度は運転があったが、1226M豊橋行、240M飯田行、そして

この242M駒ヶ根行、1228M豊橋行、のため、飯田から先は1226Mと1228Mの間は

3時間ほど空くことになる。区間運転の電車は結構多かった。

 雲一つ見られない快晴の中、クハ86の先頭にもよく陽があっていて好ましい。

よく見ると、先頭の助手席窓下手摺と運転席窓下手摺について、影の長さが異なる。

先頭の形状に角度があるために見られる現象であるが、結構見えることもあるよう。

 

 この時は3日間ともよく晴れてくれて、走行撮影が出来て嬉しい状況であった。

本当はもう少し朝早くの早朝の撮影から開始したかったが、以下1)日程で困難。

というのも、このころの夜は信州ワイド周遊券をフルに使用で、経費節減対応。

 

 1)撮影後に、松本等に移動で夕食、その後は以下(信州ワイド)

   松本2139→きそ3・803M→2240長野

   長野2320→きそ6・802レ→245木曽福島248→きそ7・801レ→405松本

   松本510→424M→603辰野628→226M→(伊那福岡行)

    ・木曽福島では対面乗換でOKであるが、寝過ごしは厳禁、プレッシャー大

    ・大糸線は朝から入れるため、飯田線大糸線を掛け持ちの時は、

       新宿からの夜行を早朝辰野で降りる=飯田線が初日、2日目が大糸線

 2)5月や7月8月では、以下も実施(信州ワイド)

   南小谷2202→松本2359→アルプス18・418M→057上諏訪

   上諏訪316→アルプス15・415M→402辰野

   辰野429→(222M)→飯田/豊橋行、あるいは辰野447→(1222M)→豊橋

    ・上諏訪駅は当時夜行が複数運転のため、待合室は閉鎖ではなかった。

      ただし冬場は寒そうであるため避けた経緯→1)

 3)青春18切符の場合は、以下

   松本2110→442M→154初鹿野218→441M→557上諏訪

   上諏訪631→辰野705→232M→中部天竜

    ・朝の行動開始が少し遅くなる点が問題、経費では一番安い

 

 なかなか悲惨な日程で、撮影優先+経費削減の極限を実施、宿泊費は削減対象。

駅寝は、有人駅は待合室閉鎖、無人駅はセキュリティーと寒さでなるべく避けていた。

なお同行者も当然のように同じ意識。茅野駅より上諏訪駅が良いとか話をした記憶。

今は夜行きそも441M/442Mも廃止、仮に存在したとしても実施は無理でしょうね。

若い時しかできない過酷な日程ばかりの、42年前の日程再現でした。

 

  参考:飯田線の旧型国電(増補版)

     時刻表 1981/12(画像の242M)

         1980/07(1と2の日程の時刻) 1983/03(3の日程の時刻)