今回は、まずクハ16211の正面から。最初の画像は101系に置換の直前の撮影になる。
正面で真っ先に気が付くのは、行先表示板の縦桟?らしきもの。行先表示が見にくい。
しかし3年前の画像ではこの縦桟?らしきものが見られない。
劣化が酷いネガフィルムから。画質はご了承です。この日はたまたま職員の方がいて
撮影許可を出していただけたため、撮影が可能となっていた。
車両端部の銘版では、製造は昭和貮年(2年)川崎造船所、更新修繕1は昭和28年で、
大宮工場、さらに更新修繕2は昭和31年で、国鉄工場ではなく、日本車両と読めた。
この更新修繕2で、旧30系の2重屋根が切妻丸屋根に大改造されたようである。
(※国鉄電車の歩み30系から80系までP10、に記載あり)
これは別の時期、尻手から矢向に到着した南武支線の車両になる。南武線を尻手から
矢向に送る時は、回送であった。旧30系と旧31系の窓の高さの違いが顕著にわかる。
なお、どうも当時頻発した国鉄ストライキの各文字の跡のような文字が左に見られる。
これは、国電だけではなくSLまでにも及び、一種の「(負の?)文化」かもしれない。
最終日前日、撮影者も少し見られた。他は一般の乗客ばかり。
以下はクハ16215とクハ16211の層別、間違いがありましたら申し訳ございません。
修正させていただきます。(縦桟は修正させていただきました)
正面では、行先表示板の縦桟?らしきもの、ワイパーの位置、ステップ各種で違い。
この縦桟らしきものはコメントでご指摘いただき、各線各種画像を再確認で、どうも
縦桟は間違いに思えるため、訂正で修正。行先表示板収納の箱の中にある仕切り板の
ような縦棒(逆T字仕切り板/棒)らしい。その手前側に行先表示板を差し入れるのが
本来の使用らしいが、縦棒より車両側に行先表示板をいれた場合、その縦棒が見えて
しまうようになる。最末期はどうもその様な使用手法が16211で行なわれていた感じ。
従って、改造ではないようで、層別保証は困難であるが、層別参考にはなりそう。
側面の場合は、運転室直後のドアが写っていれば、そのドア形状で差が見られる。
16211は、1枚ガラスでプレス無しドアとなり、2位側1位側ともに交換実施であった。
他に上り梯子ステップや手摺で違いあり。16215では、運転室ドアの縦手摺で、上段の
手摺がシール上にかかっていた。
工場による改造の差の可能性。結構違いが見られると感じられた。
国鉄電車編成表:1978/1979/1980
旧型国電車両台帳
国鉄電車の歩み(30系から80系まで)
本文の、行先表示板の縦桟は、誤記修正で、修正させていただきました。
以下追記になります。
今回コメントで、正面行先表示板縦桟は、桟ではないとのご教示をいただきました。
そのため、未精査の画像を至急で複数確認せていただきました。結果は、ご指摘の通り
としか思えない結果でした。それを以下に掲示いたします。
まず、横浜線のクハ79から。東神奈川/中山の2駅表示であれば、縦桟?も違和感が
小と感じました。もちろん磯子の1駅表示は表示としては極めて好ましくないですね。
当時は、縦桟あり?は2駅表示用で、それを1駅表示でも代用と勝手に解釈でした。
次は仙石線多賀城駅に留置中のクハ79から。許可なしでこれ以上離れての正面の
撮影が出来ない状態のため、やむを得ず斜めから無理やり撮影。そのため行先表示板
(行先表示箱)が斜めに映っています。奥行から、どうも縦桟ではなく、逆さT字の
仕切り版?に見えます。位置は奥行きの中程でしょうか?ご指摘の内容と一致です。
しかし、本来なら正面から撮りたかったが、斜めからやむを得ず撮った失敗的な画像で
よくわかるということもあるのですね。
さらに今度は南武線のクハ79から。稲城長沼/立川間が4両限定の時代で、川崎から
の6両のうち附属2両が切り離しで、稲城長沼駅の先で複数編成が留置状態です。
拡大で、手前に川崎(②、裏は推定武蔵溝ノ口)、奥にもう1枚、①と読め、立川と
推定(裏は推定登戸)、2枚装着もあったようです。川崎の裏は立川とばかり思ってい
ましたが、どうも裏返すのが面倒であったのでしょうか?
もう一つ、箱の下にゴミのようなものがあることが多く見えますが、もしかしたら
意図的かもしれません。少し上に板が出ていたら取りやすい?これは自分の推定です。
最後は南武線武蔵溝ノ口に停車中のクハ79から。光線のためかよくわかりませんが、
この逆さT字の仕切り板?が2個あるように見える可能性?それとも錯覚でしょうか?
これは間違いかもしれません。
上記を改めて振り返り、40年以上を経て誤解釈がわかったこともあるのですね。
ご教示ありがとうございました。