一睡の夢:国鉄末期の12年

40年ほど前の国鉄時代の記録

飯田線80系普通電車4

1982/03/16 飯田線 三河大野/湯谷、1225M 辰野行、80系

 1978年の戦前車半数置換後は、撮影は北部中心になっており、南部区間は久しぶり。

三河大野の北側での撮影。少しずつ春らしくなってきている。今日の天気は今一つ。

電車本数が少ないため、三河槇原でしばらく構えていたあとに、本長篠まで歩き。

 1225Mは、以前は飯田線豊橋機関区33運用、クモハ52が北部まで行く唯一の運用。

半分聖地的な番号として感じていたが、その後は80系に置き換わっていた。

 

 この時初めて18切符を使用。1回目であったこの時は「青春18のびのび切符」。

現在とは少々異なり、4枚つづり(バラしてもOK)で1枚は2日券、5月末までの記憶。

当然ヘビーユーザーになっていた。行先によって周遊券と使い分け、あるいは併用。

特に周遊券では行きにくい場所には重宝していた。

 難点は、行程がマトモではなくなってしまうこと。当時の行程再現には慎重になる。

東海道線345M/340M、中央線441M/442Mの多用、では、翌日との繋がりは微妙。

当時のフィルムには、飯田線の翌日に磐越東線の旧型客車の画像があったりしている。

自分だけではなく当時の同行者も、普通の友人に「どこに行ったの」と言われて困窮。

土日に信州と南東北に行ってきた、とは言い難く、適当にどちらかを選ぶしかない。

もし何かお土産でも買った場合、どこで買ったか考えて答えないと面倒になる。

 また、340→345Mや442→441Mの富士や初鹿野(甲斐大和)での深夜乗換もあり。

これは同じエリアに翌日も撮影希望の場合の超強硬策。当然ものすごく疲れる。

時間的に可能なら、夜間に東京や新宿まで戻って345Mや441Mに乗車が望ましい。

しかし撮影時間優先で、戻りが困難な場合は、超強硬策になってしまうときもあり。

当時は駅寝は基本避けていた経緯。(待合室が閉められる場合がとても多かったため)

 いずれにしろ18切符にはとにかくお世話になりました、であり感謝以外にはない。

ただ年に1回程度に減ってしまっても、再雇用の年齢の自分もいまだに現役ユーザー。

正確には過去形ではなく、「今年もお世話になっております」、の継続状態である。

 

  参考:飯田線の旧型国電(増補版)

     時刻表 1981/12