いわゆる閑散駅の為栗は、千代や金野とともに何回かお世話になった駅。
40年前の閑散駅の姿はまた改めて。その為栗駅を降りて近くの橋を渡って対岸へ。
今回は少し平岡方面へ歩く。山に囲まれたここでの撮影は、陽が陰ってしまった。
その分だけ山奥の深遠さが少し出た可能性?
前回のクハユニ56004に続き、今回はその連結相手のクモハ61005について。
上り奇数側から。運転室ドア下左に②が読めるため、こちら側が主運転室側になる。
パンタグラフ側にもなる。運転席側2位4位側の床下には抵抗器があり電気側になる。
正面幌あり。運転席窓上に通風機あり。運転席窓助手席窓ともにHゴム化されている。
行先表示板の枠は窓下で、中央客ドアの左側。中央ドアの開く向きに注意になる。
クハユニと連結での運用ばかりで、上り奇数側正面は撮影の機会がとても少なかった。
運転助手席側1位3位側は、1978年半数置換前の姿の画像になるが、基本同様。
反対側のパンタグラフがない側の運転室側から。幌、通風機、Hゴムは同様。
どうもクハユニとの連結が多かったのか、いつも2両の下り側の運用ばかりの記憶。
それでも下り側の正面も、どうも撮影の機会は多くはなかった。
伊那松島機関区内で入替中。編成替えを行なっている最中?
クモハ61005←40013、S07=1932年製
今回はクモハ61005。両側運転室車両であるが、両側とも撮影は出来ていた。
パンタグラフは上り側、側面行先表示板受けは窓下中央ドア左側、区別は可能。
中央客ドアが、パンタグラフ側に開くこと、これに注意になる。
クモハ61に関して、yasuo_ssi様からのコメントでようやく概要がわかりました。
また、yasuo_ssi様のブログでは、詳細は調査等があり、とても勉強になりました。
改めて感謝いたします。以下、それと他の資料含めての簡易的な概略になります。
(間違いありましたら大変申し訳ございません)
クモハ61は、003/004/005が最末期まで伊那松島機関区に存在していた。
ともに製造直後は、パンタグラフがある運転室が主運転室で、下り偶数向き。
しかし床下は、運転席側2位4位側が電気側で抵抗器ありの見かけ奇数向き。
大阪の省電1や関西国電50年の戦前の写真には、その状況が記録されている。
電気側が助手席側1位3位側で製造されるのは、この少し後の年代だそう。
その後大阪地区から飯田線転属で、同じ向きで使用が下り偶数向き61003。
床下で運転席側に抵抗器で違和感と記載した9(56002/61003)になる。
その後の標準(下り偶数向き車両は助手席側1位3位側が電気側)とは逆。
飯田線の旧型国電 増補版のP110、クモハ61003について、
「同車はオリジナルの姿を一番のこした車両だった。」は上記を示すと理解。
61004と61005はその後逆向き方向転換改造で、上り奇数向き車両となった。
そのため61004は床下がもともと見かけ奇数向きのため、見かけ違和感なし。
しかし問題は61005。これの中央逆ドアの開く方向について。
基本的にクモハ61/クモハ40の中央の客ドアは、パンタグラフがない方向に開く。
ところが61005はパンタグラフ側に開くという特徴がある。これには正直参った。
ドアの開く方向を逆向き改造例は、クモハ73600~の運転室直後のドア等であり。
しかしそれは運転室増設時、その直後の窓は戸袋ではなく開く窓にするという理由。
国電に冷房が普及する以前では、できれば真夏に窓の開かない空間を減らすため。
しかしクモハ61005のドアの向き変更の改造理由が素人的に思いつかない。何で?
この件は、yasuo_ssi様の詳細な調査と考察があり、複雑な背景があったらしい。
どうもドア改造ではなくパンタグラフ移設の可能性だそうで、正直絶句してしまった。
自分の知見が全く及ばない範囲がいくらでもあるようで、正直恐れ入りました。
参考:旧型国電車両台帳、国鉄電車の歩み(30系から80系まで)、
国鉄電車ガイドブック 旧性能電車(上)、飯田線の旧型国電 増補版
時刻表 1981/12、他
大阪の省電1、 関西国電50年
yasuo_ssi様ブログ
代役でも八面六臂で活躍した飯田線 クモハ61004 (蔵出し画像)
謎の方向転換が行われていた 飯田線 クモハ61005(蔵出し画像)